昭和五十一年八月十日 朝の御理解 第四十五節
「世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目が潰れると云うが三宝様は実るほどかがむ。人間は身代が出来たり先生と言われる様になると頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳が付くほどかがんで通れ。とかく出る釘は打たれる。よく頭を打つと言うが天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが油断をすな。慢心が出るとおかげを取り外すぞ」とあります。
大阪の泉尾教会の三宅先生のお話をあちらから出とります「いずみ」と云う御本から頂きますと、私共には理解の出来ない言葉が沢山使ってございます。いわゆる泉尾独特の言葉ですね。そのお言葉が段々読ませて頂いておるとひとつひとつ分からせて頂くように思います。
例えば何でもの願いと云う言葉を沢山使われます。何でもの願い。人間願いだしたら願わなければならないことばーっかり、いやもう願わずでよいと云うことは一つもない。願わなければならないことばっかりなんです。まあ欲の突っ張った、云うならば信心だなあと云う感じで受けておった。けれどもその何でもの願いと云うことのその素晴らしいと云うことは、これは私はいやです、嫌いですとか云う様なものも頂かせて下さいと云う願いと云うようなことが分かって参りましたら、これは素晴らしいことだ、人間誰でも願うああありたいこうありたいと願うその願いもさることながら、神様が下さる一切のものしか貴方に私に特別に神様が下さるのだ。私だけの上に起きて来る、例えば問題、それが難儀であろうが損になることであろうが、腹の立つことであろうがねえ、それこそどういう事でもそれこそ何でもかんでも頂かせて頂くと云う願いに立っておられるのだろうとまあ私は思うのです。お目に掛かったこともなし直接話を頂いたこともないのですけども、あの隆々たるまあ名実共に日本一的なおかげを受けておられます先生のお話ですから無駄やらそつがあろう筈が無い。只こちらが分からんだけ。その何でもの願いと云う様なことが最近分からして頂いて素晴らしいことだなあと思うのです。だから何でもそれこそ箸の上げ下げしかり、願わねばおられんのが私達なのである。自分が何でも出来ない無力であることが分かれば分かる程願わずにはおられないねえ。その代わりに例えば神様が下さるものならそれこそ夏の小袖である一切を有難く頂いていこうと云う願い、例えば今日の世に三宝様踏むな三宝様踏むと目が潰れると云うが、と云う表現なんかはね、三宝様と云うのはここには穀物の意をしてあります。云うならば人間が生きて行くためにどうでもお世話にならなければならない大事なものだと云う訳です。人間が生きて行くと云うだけではない、人間が幸せになることの為にはどうでもそれが必要だと云う三宝様ねえ、云うならば大切なもの、おかげの元と思われるお徳の元と思われる様なものを粗末にした、目が潰れるぞと。
目が潰れると云うことは折角のおかげをおかげにすることはでけないぞと云うことにもなりましょうねえ。
信心をさして頂く者は肉眼をおいて心願を開けとこう仰せられるが、肉眼をおいて心願を開けそうになってまいりましても私共があれは頂くこれはいやと云った様なことでは三宝様を踏みつけることも同じ様な事になるから、何時まで経っても心の目が開けないね。いわゆる、ここで云う成行きをいよいよ尊ばせて貰い、しかも全てのことに御の字をつけて頂こうと云う生き方なんですねえ。それを泉尾の先生は私は本当の事は分かりませんけれども、私の察しなんですけれども、何でもの願いとはどんな事でも願わなければおられないほどしの私共であると云う、云うなら吾いよいよ屑の子の自覚、いよいよ吾無力の自覚をでければ願わずには縋らずにはおられないと云うことだけを願うのではなくてです、神様が求め給う私に対する、ま修行と云うかおかげの受け物を作ってくれよと言うてござる、その受け物を作る為にです、何でもの願いに立たなければいかん。どういう事であってもそれを合掌して受けていこうと云う生き方を身につけていく。もうひとつまあ幾つもあります。分からないところ、もう必ずもう何カ所沢山お使いになるお言葉の中にね、おかばいを受けると云うことを言っておられます。かばわれておる私と云うことです。これも私はあんまり分からなかった。も少し金光教的に表現なさってよかりそうなもん。
例えば私共は本当に信心がでけません。でけんけれどもそこを神様なんとか見直し聞き直して頂くと云うような言葉を使います。祝詞言葉になんかあります。見直し聞き直し私の言っておることしておること、もう本当に神様の目にあまる様な神様のお心を不快な思いにさせる様なことばっかりでございましょうけれども、一途に神様にお縋りしておる気持ちは一心を持っておるけれども、生身を持って居る凡夫のことでございますから、何処にお粗末御無礼がありやら分かりません。そこんところを見直し聞き直ししておかげを下さい。お育てを頂きたいと思いますと云った様な表現なら分かるわけです。同時にお互いがよく申します、信心もでけんのにかくおかげを頂いてと云うことがあります。私はこれを思わなかったらお道の信心は、お道の信心を頂いとる値打はないと思うですね。
これほどしの信心がでけておる、これだけ一生懸命御用がでけておる。だからおかげを頂くのは当然だと云ったような考え方では実意丁寧神信心をいよいよ欠いて居ると私は思うんです。もうそれこそ人間の力の限りもうこれ以上のことはでけまいと思われる様な信心をさして頂いても、いざ信心、神前に出らせて頂いたら勿体ない。信心もでけんのにかくおかげを頂いてと云うおかげの方が大変重い事になってくるのがまともな頂き方だと私は思うです。
そりゃあ、ああた毎朝参りよるから、もう御用ちゃ第一番にさして貰いよるからそれが私が一番前後に出て来るところの慢心が出るとおかげを取り外すと云うことはそういう事だと思うです。
だからこれほどしの信心がではなくてからね、信心のでけませんのにかくおかげを頂いて初めて勿体ないと云う実意丁寧な信心がでけるのです。本当に信心もでけません。これはもう本当に思います。 私も信心もでけませんのにこの様なおかげを頂いて勿体ない。それが私の信心の底にあるのです。だからそういう信心もでけませんのにとかねえ、人間生身を持っておりますことですから何処にお粗末があるやら御無礼があるやら分かりません。そこんところを神様見直し聞き直し下さっておかげを下され。信心を進めさせて下されと云って願う。私しゃそういう事かと思うておった。お庇いを頂くと云うことは庇う庇われておる私、ここのご信者方はみんなそういう言葉を使いますですね。いわゆる親先生のお庇いを受けておかげを受けておると云っております。親先生その方三宅先生その人は天地の親神様のお庇いを受けて今日の三宅があると言うとられますねえ。庇われると云うことはどういう事か。お父さんが子供を叱りますですね。悪いこと致しますとそれを横からお母さんが、もうこんだぎりでもう決してそげな悪かこつはしませんからお父さん堪えてくださいと子供になりかわって母親がお詫びをします。いいやこらえられんといよっても母親が出てきて叩こうとしてもそれを庇う、そういう意味なんですねえ。
何時も色々お庇いを受けて居る。それこそ根底には信心もでけませんのにでしょうけれど、その特別に庇われておる私と云う自覚、やっぱりその自分がひいきをしたり自分が信頼しとる人の事を誰かが悪口を言っておったり、言ってますと一口庇わなければおられない様なものがございましょうが。
ハアーあの人はろくな奴じゃないと、けどもその言われた人のことをそれでもあの人はああ云ういいところがありますよと、こう庇うねえ。だからこの庇われておると云うことのやはりやっぱりお庇いを受けてと云う言葉をお使いなさる意味が少ーしそれも本当なことかどうか分かりませんけれども、分かりかけてきたような気が致します。ね、だから親先生と信者の仲があの様に素晴らしい、いわば関係と云うか間柄が生まれて来るのだとこう云うことを言うとられます。
私共が拝ませて頂く神様はね、恋神だと言っておられます。恋の神様だとねえ、皆さん一辺失恋をしてその失恋の痛手を感じた体験のある程しの人ならば私の心が分からん筈はないとも信者に言っとられます。云うならば片思いに終わったと、その切なさと云うものはそれを体験した者でなからなければ分からない。氏子一人一人のことをお取次願われる、どうぞひとつあれだけ熱心に信心を致しとりますからおかげを頂かせて下されいと言って願う。そこでもう一段信心を進めてくれればおかげを受けられると思うのにおかげを信心をストッと弱めたり辞めたりする。いわば信者氏子のことでございましょうねえ。私もこれは何時かお話をしたことがあるけれども、本当に片思いに終わるほど残念なことはありませんね。
ハアーこの信者はこの氏子はと思うて一生懸命お取次をさせて頂いてお願いをさせて頂いとるのがです、何かの調子にほっと信心を辞めたりおろそかにしたりする人がありますね。それこそ片思いに終わる思い、親先生は何時も私達の上にそういうはがゆい片思いを私共はさせておる。神様がいや親先生が千も万もの思いで思うておて下さるのをこちらはひとつもそういう思いで思われて居るとか、庇われておると云うことを気付かない。そこに信心のいわば珍味にも触れられない。実に残念なことだと云うのです。ね、
神様は私共が願っとる神様は恋神だと。氏子の一人一人の上にそれこそ切なるまでの思いをかけておって下さる。そこで私共がです、その切なる思いを受けて立たせて頂く信心、それを泉尾の先生はこう云う風に言っておられます。同じ燃えるのでもくすぶり続ける様なことでなく燃え尽くす炎であれと言っておられます。燃えに燃えるね、思い思われるね、お互い信心はしとる。毎日お参りもでけとるけれども、あれがねしるしいくらいな信心ならば燃えておる様であってもそれはくすぼっとる様なもんじゃないでしょうかね。燃え尽くせと云うのです。それこそ灰になるまで燃え尽くす。
私は思うのに、そういう心そういう精神を以て姿勢を以て信心をさせて頂く人の上に特別の私しゃお庇いがあることを今日は感じますね。もう貴方の為なら命も要らんと云うほどしの燃え方。けれども悲しいことには生身を持っていることであり凡夫であるが故にです、何処にお粗末が御無礼がでけてくるか分からんのに、けれどもそういう一念を燃やす人の上に私はお庇いがあるんだと、ね。
私共この神様のお庇いを受け続けなければ立ち行かんのであり、いや受け続けなければです、人間の幸福は有り得ない。何処って間違いがないと云うことはない。間違いだらけかも分からんもん。
いくら熱心であっても、けれどもそこをです、私共が一念を燃やす時です、燃え続ける時です、その氏子を神様が庇うて下さる。そこに云うならば鮮やかに捧げるとか、鮮やかなおかげになってくるわけでありましょう。云うなら人の真似のでけん信心とはそういう信心だと思う。熱心の様であるけれども本当にくすぼり続けておると云う様なことではないだろうかね。又失敗しましたと云うのは絶対くすばり続けて燃えとるとです。ねえ、
例えば先日から石井清さんが腹を立てんと云う修行をしてそれが自分のものになってしもうた様な感じ、もうあれが腹を立てると云った様な時でもね、こう辛抱しなければならんのではなくて、有難くでける様になった。今月からはいよいよ不平不足を言わん修行に取り組みたい。そりゃやっぱりそういう風に一心発起する皆さんの前に発表するだけでも何か妙な気色がする。それは丁度パラシュートを抱いて飛行機から飛び降りる時にはこういうもんじゃなかろうかと思う様な感じがする。も一生これから不平不足は言わんと云うのですから、ハアーこりゃもう不平不足も言われんじゃろかと云った様なもんがあるのじゃないでしょうか。けれどもその一心発起が素晴らしいのです。そんな話を聞かれて善導寺の原さんがおかげを頂いて私も腹を立てんと云うことだけはもうひとつ本気で頂こう、いや又頂いて居るとも思うておられた。その御理解を頂いたときに自分の信心を思うてみて、ハハアー私もやっぱり腹を立てんおかげを頂いとるなあと云う風に思われた。ところがその晩休まれて朝方のお夢に孫の良一君です、千恵子さんの一人子ですが、大きな男から盛んにこなされとる。虐められとるところであった。一時は辛抱してみよったばってん、あんまりこなすからもうつるつる行ってから上に叩いたりその蹴ったりしよるとば上から行ってからそれば引き外してから、こげなこまかもんばどうしてそのこなすか、あんたそげんしとる、もう警察に連れて行くから来いと云うてからごろごろ引っ張ってその警察に連れて行ったお夢であった。そしたら警察の警察官の人が知らーん顔をしてござるところで目が覚めたと云うのです。もう目が覚めて愕然としましたと言っておられます。私はもう腹を立てん、腹を立てる様なものはないと思うておった。ね、今日の御理解、それが慢心なんです。如何に御用がでけとります、如何にもし毎日お参りしよります、教えも守らせて頂いとります、おかげでもうこんりんざい腹を立てんと云うたら腹を立てんだけのものが心の中にでけておる様に思うのが慢心です。実際の可愛い孫がこなされよったらもう腹立った。しかもそれを警察にゴロゴロ引っ張って連れて行きよる。ね勿輪その警察は神様でしょうね。神様がうてあいなさらじゃった。そう言う事を見せたり聞かせたりしながら神様は試しにも試しておられる訳で見事に自分の腹を立てんと云うことはまだまだほんなものじゃなかった、未熟だったと改めて分かって愕然とするほどしのことです。でけとると云うてでけとることありゃしません。ねえ、そこにです私共が一心を立てて燃え続ける。これはでけてもでけなくても命をかけると云うか燃え続ける、くすぶるのじゃない、燃焼する。完全燃焼する、そういう私共は三宝様踏むな、三宝様おかげを頂く元、お徳を頂く元をおろそかにせんで済むおかげを頂くのじゃなかろうか。そしてそれが例えばでけたからと云うて、もう私しゃこれがでけた、これは卒業したと云うことは、もう既に慢心だと云うのですねえ。それでもやはり尚且つ信心もでけませんのにかくおかげを頂いてねえ、どうぞ何処にお粗末やら御無礼があるやら分かりませんと詫び抜かせて頂く姿勢、云うならばここにありますねえ、少しおかげを頂くともう頭が高くなる。先生と言われる様になるともう人に頭を下げることすら忘れる。昨日は研修の時に話したことでしたけれど、昨日おとといでしたか、新聞を見せて頂いとりましたらある先生、もう八十幾つになられます先生の師あり道ありと云うのが出ております。その中にこれは何時も同じ様なことを感ずるのですけれども、新聞記者の方が最後に今の若い者、特に若い取次者に対してどういう様なところが欠けておるでしょうかと云う様な質問を必ずしております。その質問に対してその老先生が言っておられることは、そうだな今の若い者に欠けておるのはねえ、祈念力が欠けておる。御祈念をする力が欠けておる。私達の若いときには、それこそ夜を徹して御祈念をしたもんだ。もうそれこそ水を被ったり断食をしたりして神様へ御祈念をしたもんだ。今の人は頭ばかりでしかも本当な教学でもない教学を振り回してひとかどの先生の様な顔をしておる。だから信者はひとつも助からんのだ。ま若い今の教師、若い者に云うならばです、その祈念力が足りないことだと云う様な意味の事何時も言っておられますですね。だから祈念力を以て人が助かる、確かに祈念力は大事です。ところがその老先生のところの教会がどれほどの御比礼が立っておるか、成程ね、もう死ぬるばかりの病人が助かったり、特別いわゆる奇跡的なおかげが立ち現れたにも拘らず信者が育っていない。大した御比礼ではないとするなら、こりゃちょっとやはり又考えなければならないことですよねえ。
だから祈念力だけではいけないと云うことを私しゃ昨日の研修の時に話したことでした。ねえ、祈念力も大事、だからそういう熱烈なです神様に向かう心がどうぞ信者の病気を助けて下さい、その為には今晩一晩中でも、云うならば御祈念を続けます。五十巻百巻と大祓を上げます。そして成程神様にごうぐる様にしておかげを受けると云うことがありますけれども、そういう先生の所では信心が育たん、信者が育たん。そしてなんとはなしにそういう荒行をしたりねえ、そういう祈念力の強い先生に限ってです、非常に態度が、あれが金光様の先生じゃろうか、信者でもなんでもお前がとわしがわしが祈ってやってるんだと、もう本当に何かそんな感じです。勿論親しみを持って言っておられるかも知れませんけれども、私はお道の信心させて貰うならどんなに私のおかげで助かったと言うてもそれを呼び捨てんどんされる心の状態と云うものはそれは本当じゃないと私しゃ思うですね。こりゃ誰誰という様なことではなくてです、これは私自身思うです。私共もそんな感じの時分もあったです。けれども段々分かれば分かるほどやっぱり私の弟子をつかまえても何々先生と呼ばずにはおられないですねえ。それはどういう事かと云うと、若いときからいわば祈念力は誰にも負けない位な祈念力を持っておったと思うですけども、祈念力では駄目だとそういう例えば祈念力をです、ね、本当なことが分からせて頂くことの為の祈念力である。云うなら昨日の御理解を以てすると天地日月の心になることが肝要だと仰せられるのですから、天地日月の心にならせて頂くことを以てですね、私はその凄じいまでの御祈念を凝らさせて頂いてね、天地日月の心が自分の心になると云うことがそのまま天地の心を心とすることにあるのですから、お徳を受けます。お徳を受けるから云うならばそういう教会は隆々たる御比礼が輝き続けるのです、と私は思うですね。
祈念力とか只霊能的なお取次に依って助かったと言うたり、又そうした教会は二代、アー昨日研修の時そういう質問があったんです。二代三代にわたって御比礼が立たなくなるのはどういう様な訳かと云った様な、だからそういう教会は必ず祈念力は強いけれどもね、云うならば表行は強いけれども心行が伴うていないからだったんだねえ。
例えば今日は御理解に云うならばです、世に宝様踏むなとね、その一番人間が幸せになる為の一番大事なものそれを踏みつけにするのではなくてね、これこそ信心の力にもなる徳にもなろうといった様なものをです、どうぞ合掌して、いわば燃えた心で受けさせて下さいと云うのである。こういう難儀な問題を何時までかろうていかなんだろうかと云うてかろうて行くのはくすぶっていく様なもんだね。それを真っ向から合掌して受けると云う生き方こそが完全燃焼だと私は思うですね。
おかげで信心がでけますといった様な生き方なんです。そういう信心を進めて行く限り私はお徳が受けられると思いますね。例えばそういう信心をさせて頂いても原さんじゃないけれども、まあおかげでどんな事があっても腹を立てんで済む様になった。先日なんかこういう事まであった。けれども心の中にかえって相手の事を祈るような気持ちが起こったという様な風に言うておられます。
だから自分はもう腹は立てんと云うことでは卒業しとるかの様に思うたけれども、実際夢の中に現れて来る自分と云うものはまだまだ不完全な自分であったと気が付いてねえ、改めて又その行に取り組ませて頂くと云うお届けが原さんからありましたが、そういう頂き方がおかげを取り外さんで済む生き方である。慢心があるとおかげを取り外すぞと最後にある。どういう信心がでけたと云うとであってもどういう御用がでけたと云うてもこれだけのことしよるけん、おかげを頂くのは当り前と云う様な考え方は慢心だ。それこそ信心もでけませんのに、それがしかも燃えておるそこに神様の云うなら鮮やかなお庇いがあると思いますですね。
庇われ続けなければならんのが私共生涯なんです。神様に庇われ続けるおかげを頂きたい。
今日は四十五節から三宝様踏むなと云うところと一番最後慢心が出るとと云うところを大体焦点にして聞いて頂いた。どうぞ。